運転免許証とアルバイト           

66年度生 鈴木 豊

“自動車部だより”で当時の部車の写真を見て現役時代を思い出しました。
50年以上前なので、すでに時効でしょうから昔を思い出しながら書き留めます。

私が自動車部に入った時は運転免許証を持っていませんでした。
当時は男子が約20名、女子が約10名の新入部員がいましたが、卒業時には半分になっていました。その年の夏、山中湖の「湖北寮」で夏合宿に参加。合宿では、免許を持っている者はフィギュア部門の練習。持っていない者は部車で運転教習に分かれて、私は“いすゞ6トン”で運転教習を受けました。

また、合宿に入って数日が経った頃、昼間の猛練習の疲れで爆睡していた深夜に突然2年生に起こされて、1年生全員が寮の駐車場に招集されました。
その時、夜空に富士山のシルエットが浮かび上がって5合目から登山者の懐中電灯の灯りが線で繋がっているファンタジーな光景が浮かんで感動しました。
2年生が富士山のファンタジーなシルエットを見せる粋な計らいだと思ったのが大間違いで、全員が有難い(?)説教を受けることになったのでした。

合宿が終わり、早速横浜市の二俣川運転免許試験場へ受験に行きました。合宿に使っていた部車は、とにかくエンジンがかかっていることがわかるほど大きな音がしたのですが、試験車は逆にエンジンがかかっていないのではないかと思うくらい静かでした。そのために私の番が回ってきた際にキーを回したら、ガリガリとセルモーター辺りから異音が出て私以上に試験官がびっくりして「エンジンはかかっている」と冷たい目で言われました。
さて、気を取り直して試験コースに出ました。坂道発進の箇所に来たのですが、私は今まで坂道発進したことがなく、案の定失敗して約2メートル後退してしまいました。試験官と運転を交代してスタート地点に戻って試験終了。第一回目のチャレンジは見事に失敗しました。その後は試験コースをすべて走破しベテラン受験生になって10数回目でようやく合格して運転免許証を取得することが出来ました。恐らく歴代の自動車部員の中でも1,2を争う受験回数だと自負しています。

ちなみに私の4年生時の役職は「指導」でした。

免許が取れたことを上級生に報告したところ、すぐに日産のアルバイトを命じられました。これがアルバイトの始まりです。東急目蒲線「不動前駅」にある日産自動車の営業所から下取り車を練馬区内の車庫に回送し車両を整理して帰る、という楽な仕事でしたが一人で運転することが初めてだったので、迷子にならないように必死で先輩のクルマを追いかけました。

当時は「技術の日産」「営業のトヨタ」と言われた時代で、なおかつオートマチック車が出始めた頃でした。メーカー毎にトヨタはトヨグライド、日産はニッサンマチック、ホンダはホンダマチックと呼ばれて開発競争が熾烈でした。


回送する車両の中に「トヨタパブリカ」があって何故か誰も運転したがらず、仕方なく私が運転しました。途中で上り坂に差し掛かり、前方が空いたのでスピードを出すためにクラッチペダルを思いっきり踏んでギヤチェンジしようとしたら、クラッチはなくてブレーキを踏んでいました。急ブレーキで止まったのですが幸い後ろのクルマの運転手がベテランであったので追突は免れました。冷や汗をかいたのは何回目でしょうか。その時に二度とオートマチック車には乗らない、と心に決めたはずですが今ではオートマチック車しか乗らない、と宗旨替えした始末です。

また、このようなこともありました。営業所の駐車場に納車予定のパトカーが置いてあったので興味津々で乗ってみました。パネルに“S”のスイッチがあったので何気なく押したら、けたたましくサイレンが鳴り響きました。パトカーで“S”の表示はサイレン以外にありません。皆さんも、もし、パトカーに乗る機会があっても決して“S”のスイッチは押さないでください。

このアルバイトのおかげで、くわえタバコで片手ハンドルができるまで運転が上達しました。ある時、座間工場から大型トラックを陸送することになり、私に役目が回ってきました。まだ大型免許を持っていないからと断っても、「このトラックは輸出用で陸運局に届けていないので大丈夫」と言われモヤモヤした気持ちで陸送することになりました。途中で赤色の回転灯が点滅する場所に来てパトカーが何台も止まっているので検問だと思い、大型免許不所持で私の運転人生も終わりだと覚悟を決めました。警察官が来て「交通事故のために交通規制をしていますので、ご協力をお願いします。」とのことで、ほっと一安心した途端に「今、仕事中なので早く通してくれ」と上から目線の自分に呆れました。

また、平塚工場からフェアレディZを陸送する機会があって、国道1号線を北上して本牧埠頭まで行くコースでの出来事です。深夜なので交通量も少なく信号も点滅だったので、アクセルを目一杯踏み込んで走ってスピードメーターを見ると“130“を指していました。帰ってから仲間に、その話をしたら「あのクルマは輸出用でメーターはマイル表示だからキロ換算すると200kmは出ていた」と言われ、私の最初で最後の200km体験でした。もし、スピード違反で捕まっていれば、免許を取り消されて今とは違った人生を送ったでしょう。

私の学生生活を振り返ると、自動車部とアルバイトに明け暮れた4年間であり、卒業証書があるので卒業したことは間違いないのですが、教室では勉強した記憶がなく部室と北グラの記憶しか残っていません。自動車部に入ったおかげで免許を取得でき、良き仲間に恵まれて充実した学生生活を過ごすことが出来ました。今でも胸を張って「明治学院大学自動車部卒業」と言えます。最後に一言“明学自動車部は永久に不滅です”

“◎運転免許証とアルバイト(66年度生 鈴木さん)”. への1件のコメント

  1. 近藤 眞知子 のアバター
    近藤 眞知子

    ビックラポン!です。同じ自動車部にいながらも 男たちはこんな部活動生活を送っていたなんて。しかもおっとり鈴木君の体当たり体験の数々。久々に声を出して笑ってしまいました。日々の暮らしの中で思ってもみなかった当時のことが懐かしく 何としてもコメントをしたくなりました。ありがとう

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